2009年06月16日

ランチョンミート(英:luncheon meat )は

ランチョンミート(英:luncheon meat )は、食肉を原料とした料理のひとつ。日本では缶詰のものがポピュラーである。別名はソーセージミート。

本来のランチョンミートは、スパイスなどを加えた挽肉を金型に入れて固めたものを、オーブンで加熱後に冷却して保存性を高めたホームメイド・ソーセージの一種である。ランチョンとは昼食の意味で、この種の保存食品がしばしば昼食のメニューに用いられたことからランチョンミートの名が定着した。再加熱することなく供されることも多いため、ハムやローストビーフ、ローストチキンなど冷たいままで用いられる肉料理の総称としてコールドカットとも呼ばれる。
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缶詰のランチョンミート [編集]
普通の肉類缶詰では、別途加熱調理した肉類を缶詰加工することが多いが、ランチョンミートの場合、生で充てんした肉類を加熱殺菌と同時に調理するのが特徴。

豚肉と牛肉(まれに鶏肉)とラード(豚脂)、肉に対しておよそ2.5%の食塩、香辛料や調味料を細断機(カッター)にかけ、加熱せずに長方体型の缶(ランチョンミート缶)に脱気充てんする。

密封された缶詰は、340g入り缶の場合、116℃、65分間の加熱殺菌を施される。

調理済み食品であるのでそのまま食べることも可能だが、沖縄を含む日本においては、ほとんどの場合焼くや炒めるなど再加熱して用いられる。5ミリぐらいの厚さに切ってフライパンで焼いたり、野菜と共に炒めものの具材とするのが代表的な利用法である。また、ハワイには焼いたランチョンミートを丸めた御飯にのせて海苔で巻いたおにぎり(スパムむすび)があり、これは帰郷した移民を通じて沖縄にも伝わりポーク卵おにぎりとして親しまれている。

この種の商品で最も有名なブランドは「SPAM」(スパム)である。詳しくはスパムの項を参照されたし。

日本では、沖縄県で「ポーク」と呼ばれて多用される。チャンプルーなどの惣菜にはこのランチョンミートが使われることが多い。戦後食糧難のころ、豚肉の代用品として米軍経由で広まったとされる。それ以来、日常のおかずにもポーク卵が多用されるなど、現代沖縄料理では欠かすことのできない食材となった。沖縄県で販売されている製品は、デンマークやアメリカ、中国製のものが多いが、最近は地元産の缶詰やレトルトパック入りのものも出てきている。本土では、沖縄物産店や輸入食料品店などの店頭には並んでいるが、一般的な食材としては定着していない。なお、ポーク卵は沖縄の大衆食堂の定番メニューにもなっている。

中華料理が基本の香港でも、ランチョンミートは「午餐肉」(ンーツァーンヨッ)と呼ばれてよく食べられており、これを使ったご飯もの、麺類、サンドイッチ、マカロニなどのメニューが茶餐廳という喫茶レストランにある。

2009年05月30日

雲光院

雲光院(うんこういん、弘治元年2月13日(1555年3月16日) - 寛永14年1月22日(1637年2月16日))は、徳川家康の側室。名は須和。号は阿茶局、民部卿、神尾一位、一位尼。父は飯田直政。
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はじめ神尾忠重に嫁いで一男をもうけるが、夫の死後は家康に召された。その後、一度懐妊するが流産し、家康との間に子供は無かった。西郷局没後は徳川秀忠、松平忠吉を養育した。才知に長け、大坂の役の際には和議の使者を勤める。徳川和子入内の際に守役を務めた功により、後水尾天皇より従一位を賜った。秀忠の没後に出家して雲光院と号する。寛永14年(1637年)に83歳で死去し、雲光院(東京都江東区三好)に葬られた。

2009年04月27日

水循環の変化

ここ一世紀以上にわたって、水循環の周期は加速している。つまり、蒸発量と降水量がともに増えているのである。これは気温の上昇が蒸発を促進することに起因するもので、地球温暖化の影響として予想されていた。

予備校・ビジネススクール関連まなび学習ネット
観光・特産物関連バカンスネット
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ハゲ治療・包茎関連医学トレンディ紹介
家電・癒し関連ショッピング全国情報ガイド
英会話・学習教材関連教育全国情報ガイド
交通・動物園関連宿泊タウンナビ
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氷河の後退も水循環の変化の一例である。降水による氷河への水の供給量が融解や昇華による減少量に追いつかなくなってきている。

水循環に影響を及ぼす人間の活動としては、

農業
ダムの建設
森林伐採や造林
地下水のくみ上げ
河川からの取水
都市化
などが挙げられる。

水循環は生物地球化学的循環の一つであるが、生態系における他の物質循環には炭素循環や窒素循環などがある。

水が地球表面を流れるにつれ、土壌や鉱物、水溶性物質などをともに運ぶ。陸地から流れ来る地表流によって海には絶え間なく塩分(塩イオン)が注ぎ込まれているが、水が海から蒸発する際、塩分はそのまま海水中に残る。このため、一般的に海水の塩分濃度は上昇する傾向にある。

ヒトの体液塩分濃度は約0.9%に保たれているが、これは進化の過程で、脊椎動物が陸生化した当時の海水濃度にその浸透圧調整能を固定化したためである。その後海水濃度は上昇し、現在は約3.5%である。

2009年04月10日

ロマン派音楽

ロマン派音楽(ロマンはおんがく)は、ロマン主義の精神によって古典派音楽を発展させていった、ほぼ19世紀のヨーロッパを中心とする音楽を指す。
ロマン派音楽は、文学・美術・哲学のロマン主義運動と関連しているが、音楽以外の芸術分野でロマン主義が1780年代から1840年代まで続いたのに対し、音楽学で慣習的に使われている「ロマン主義の時代」は、それとは異なり、古典派音楽の時代と近代・現代音楽の間に挟み込まれている。ロマン派音楽は、だいたい1800年代初頭から1900年代まで続いた。

ロマン主義運動の考え方は、真実は必ずしも公理にさかのぼりうるとは限らず、感情や感覚・直観を通じてしか到達し得ない世界には、逃れようもない現実があるというものだった。ロマン派音楽は感情表現を押し広げ、より深層に隠れたこれらの真実を抉り出すための闘いだった。いっぽうロマン派音楽は、古典派音楽から受け継がれた楽式の構造を、たとえ拡大したにせよ、維持し続けたのである。

「ロマンティックな音楽」という日常語は、やわらかく夢見がちな雰囲気を連想させるような音楽という意味で使われる。この用法は、当時確立した「ロマンティック」という言葉の含意に由来する。だが、「ロマン派の」楽曲がすべてこのような形容に当てはまるとは限らないし、「ロマンティックな」楽曲が、必ずしもロマン主義の時代と結び付いているわけでもない。

ロマン派音楽の諸傾向 [編集]

音楽語法 [編集]
ロマン派の時代は、バロック音楽や古典派音楽から受け継がれた和声語法を言い表すために、「調性」という概念を確立した。ロマン主義の作曲家は、J.S.バッハやハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンによって示された、偉大な機能和声法を、自分たちの半音階的な新機軸に混ぜ合わせようと試みた。よりいっそうの動きのしなやかさや、より大きなコントラストを実現するため、また、より長大な作品の必要を満たしてやるためだった。

半音階技法だけでなく、不協和音もいっそう多用されてさまざまに活用された。たとえば、しばしば最初のロマン派の作曲家と見なされているベートーヴェンや、後のリヒャルト・ワーグナーは和声法を拡張し、以前は使われなかったような和音を用いたり、従来とは異なる方法で既存の和音を扱ったりした。ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》に散見される「トリスタン和音」は、和声機能の解釈の仕方や、その美学的な意味をめぐって多くのことが論じられてきた。

作曲家はますます遠隔調に転調するようになり、古典派の時期に比べると、予備なしの転調が頻繁になった。時には、転調の軸足となる和音に代わって、音符一つで転調することさえあった。フランツ・リストらの作曲家は、このような音符を、(たとえば嬰ハ音を変ニ音へと)エンハーモニック的に「書き換え」て、さらに遠い調への転調を試みた。どの調にも移ることが可能になる減七和音のような仕掛けも、積極的に探究された。

ロマン派の作曲家は、音楽を詩に見立てたり、叙事詩や物語の構成に似せたりし、それと同時に、演奏会用作品の作曲や演奏のため、より体系化された基礎を創り出した。ロマン主義の時代は、ソナタ形式など以前の習慣を規則化したが、それからほとんどすぐに、それらを拡大解釈した。歌曲の作曲においては、旋律や主題にますます焦点が向けられた。旋律の強調は、循環形式がいよいよ積極的に多用される中で現れた。当時ありがちだった長めの楽曲にとって、循環形式が重要な統一手段であることは明らかだった。

以上の傾向(和声のよりいっそうの巧妙さや流麗さ、ますます長く、ますます力強い旋律、表現の基礎としての詩情、文学と音楽の混淆)はみな、程度の差はあれロマン派音楽以前にも現れていた。それでもロマン主義の時代は、それらを音楽そのものが中心的に追究すべきものとしたのであった。ロマン派の作曲家は、科学技術の助けも受けた。科学技術は、たとえばオーケストラにも匹敵するほどの力強さや音域をピアノにもたらしたように、重大な変化を音楽にもたらしたのである。

音楽外の影響 [編集]
ロマン派音楽の時代を通じて戦われた議論の一つは、音楽と、音楽外の言葉や発想源との関係であった。19世紀以前にも標題音楽(ある視点や標題による音楽)はありふれたものだったが、音楽形式と音楽外の霊感をめぐる葛藤は、ロマン派音楽の時代を通じて、重大な美学的命題となったのである。

論戦の発端は、1830年代にエクトル・ベルリオーズの《幻想交響曲》までさかのぼる。この作品は、詳細な標題が副えられており、評論家や有識者に筆を握らせたのである。攻撃者の筆頭で、ブリュッセル音楽院の院長フランソワ=ジョゼフ・フェティスは、この作品は「音楽にあらず」と断じた。一方の擁護者の旗頭はローベルト・シューマンである。ただし、「すぐれた音楽はおかしな題名によって損われる。すぐれた題名があってもおかしな音楽の手助けにはならない。」とも論じて、標題そのものには否定的であった。音楽外の霊感という発想を擁護する役目は、フランツ・リストに委ねられた。

このような亀裂は、時間が経つにつれて両陣営から論争が仕掛けられ、いっそう明白になった。「絶対音楽」を信じる者は、音楽表現は形式の完成にかかっているとして、古い音楽で敷衍された見取り図に従った。最も有名な形式は、そのころ公式化されつつあったソナタ形式である。標題音楽の信奉者にとっては、詩など音楽外のテクストの叙事的な表現こそが、それ自体で形式だったのである。だから、生活を創作に捧げる芸術家は、音楽形式を物語に従わせることが必要であると論じていた。両派は、持論を発想したり正当化したりするにあたって、ベートーヴェンへとさかのぼった。この分裂は、リヒャルト・ワーグナーとヨハネス・ブラームスの、それぞれの支持者の反目によって、次のように見なされた。すなわち、ブラームスは、言葉などの、音楽外に関連するものを持たない「絶対音楽」の最高峰であり、ワーグナーは、詩的な「実体」こそが、和声や旋律を充溢させた音楽を形作ると信じているのだ、と。

この論争を引き起こし、影響力を与えた要因は複雑である。ロマン主義の詩の意義の発生も確かにその一つだし、演奏会や家庭で歌えるような歌曲の需要の増加もまた然りである。もう一つの要因は、演奏会そのものの変質であった。演奏会は、雑多な楽曲の上演から、より特化された曲目へと絞り込まれ、大きな表現力と特定の目的をもった器楽曲が次第に要求されるようになった。

「音楽外の霊感」の実例は、シューマンの《交響曲第3番「ライン」》や、リストの《ファウスト交響曲》と《ダンテ交響曲》および数々の交響詩のほか、チャイコフスキーの《マンフレッド交響曲》、リヒャルト・シュトラウスの交響詩、マーラーのいくつかの交響曲といった例がある。後には、ブラームス陣営から出発したツェムリンスキーやシェーンベルクですらも交響詩を手懸けた。

リストなどのピアノのヴィルトゥオーソは、オペラのアリアやシューベルトらの歌曲を編曲・改作して器楽曲へと仕立て直した。マーラーの交響曲では、自作歌曲と密接な関連を持つものも少なくなく、しばしばオーケストラ伴奏歌曲やオラトリオ、カンタータと融合したような例も見られる。

ロマンティック・オペラ [編集]
歌劇においては、バロック・オペラや古典派のオペラで確立されたさまざまな形式が緩められ、うち壊され、互いに溶け合う傾向にあった。ギリシャ神話のようなヨーロッパにとって普遍的な題材よりも、各民族の神話や民話、伝説、歴史に題材が求められた。この傾向はワーグナーの楽劇において頂点に達した。ワーグナーの作品では、アリアや合唱(重唱)、レチタティーヴォ、器楽曲を互いに切り離すことは出来ない。その代わりにあるのは、連続した音楽の流れである。

別の変化も浮かび上がる。カストラートの衰退によって、テノールを主役に配置することが定式となり、合唱はいっそう重要な役割を与えられた。また、のちには歴史的・神話的な題材よりも、現実的な題材を好む傾向も生まれた。フランスでは、ビゼーの《カルメン》などが書かれ、イタリアでは1890年代になると「ヴェリズモ・オペラ」が創り出された。世紀末のウィーンでは、ツェムリンスキーやシュレーカーらが現実的な題材に挑み、とりわけコルンゴルトの《死の都》は、第一次世界大戦後のドイツ語圏で人気があった。

逃走の大地 ロゴス クキン タラン ハンマー ベニア 琥珀の月 ガブリエル アフタン フリーダム アイド いせい レインボー カスタ シャックル 天応最適 スポー マンバ てんびん ミュンヘン ガラニン ドリン ブルドー 春玉 バンニン 青い ドレス ブラン ビデオ メンタリ サーペント ビットト ドルフィン ピクトブ ルドベ サーコー 市松模様 ミントン マルタ リタイ バッテ ブラシ トルコ石 ネート オフチュ シンド ウース ミツマタ ラッシュ ちずい魚

2009年03月26日

コックバンド

陰茎の根元を締め付け、陰茎を常時勃起させたままにする。"cock"の本来の意味はレバー"lever"であり、日本語に入った英単語では、蛇口などの横長ハンドルを意味する「コック」として知られる。これが英語ではペニスを意味する俗語にもなる。

勃起維持用
機能性を主目的にしたものは、柔軟性のあるエラストマーで作られており、陰茎を軽く締め付けることで勃起維持を図る。簡単な構造のものはコンドーム脱落防止リングと称して、薬局やドラッグストアで販売されているものもある。装着感は、多少きつく感じられるがそのまま射精可能である。
ファッション用
ファッション性を主目的にしたものとしては、腕輪のように、陰茎に金属の輪を嵌めるコックリングがある。陰茎のサイズに応じたものを着用するので、締め付け感は強くない。
SM行為用
男性には多少の苦しみ(外圧的痛みでなく、発射出来ない内圧的構造)が伴う為、性行為そのものだけでなく、男性を貶める拘束具としても使われる。一度に一つでなく、複数で拘束する場合もある。
ベルト:ズボンのように、穴付き皮ベルトで締めるもの。
ワイヤー:ベルト式と似ているがもっと細い。また細さを活かして、ワイヤーの周囲に付けられたギザギザがより刺激を与えるタイプや、陰嚢の周囲を縛るタイプも存在する。陰嚢内の睾丸を左右に分離するものを特に「玉割り」と言う。

勃起補助ポンプ
疲労、連続射精、あるいは加齢などにより、十分に勃起しなくなったときに使用する。陰茎に負圧を掛けて血流の流入増を起こし勃起させるもので、勃起後の陰茎にはコックバンドを装着し勃起を維持させる。使用法は次のとおり。

ガラス製あるいはプラスチック製のシリンダ本体に、エラストマー製のコックバンドを装着しておく。
勃起していない陰茎をシリンダ本体に差し入れ、ポンプを作動させてシリンダ内の空気を抜いていく。ポンプには、手動式のものや電動式のものがある。
シリンダ内の空気が抜けるにつれて陰茎は勃起していくので、十分に勃起するまで続ける。
十分に勃起したらシリンダ本体に装着しておいたコックバンドをずらせて陰茎の根元に装着し、ポンプを止め、シリンダ本体から勃起した陰茎を引き抜く。

肥後ずいき
肥後ずいきは熊本県伝統の性具である。熊本藩 細川氏が徳川家への献上品に定め、参勤交代の土産物として持参したとされる。大奥などで使用され、現在では熊本土産として購入することができる。

男女両用

ラブローション
性玩具用に「ローション」と呼ばれるこれらの液体は、強い粘性と潤滑性をもった水溶液で、摩擦を軽減させる効果がある。これは「性具」というよりもむしろ消耗品だが、これを用いる事により愛撫の効果を高めたり、または様々な特殊プレイにおいて本来は肉体機能上で潤滑されない部分を潤滑(パイズリ・素股などのプレイが有名→ローションプレイ)させたり、また初心者や高齢者にあって性器が濡れ難くなっている場合などにも利用される。

様々な用法が存在し、その利用法も利用者の工夫次第で無限と言えよう。ただ、これらの液体は摩擦力を軽減させるために、足の裏や椅子に付着していた場合などに転倒事故を招き易いので注意が必要である。

濃過ぎる場合には水で薄めて使用するが、業務用の濃厚なタイプでは2?5倍程度に薄めて使用する物も見られる。製品によっては紫外線で分解してしまったり、生分解性があるために腐敗したりする物も多い。密閉容器に入れ冷暗所で保存して、開封したら早めに使い切る必要がある。また、コンドームの摩擦緩和用として、薬局・薬店のコンドームコーナーでは、化粧品や歯磨きのようなチューブ入りのローションが販売されている。これらの多くは「潤滑ゼリー」という名称で販売されており、潤滑性の点では一般的なローションより劣るが、容易に洗い流すことができる。

主成分は水溶性ポリマー(主にポリアクリル酸ナトリウム)と水であるが、これは食品添加物の増粘剤にも利用されており、たとえ口にしても特に大きな危険性は無いと考えられる。ただし、保存料など、それ以外の添加物が含まれている製品も見られるため必ずしも無害とは言い切れない。

参考:日本農薬学会提供の資料(PDF形式)
温感ローションと呼ばれている物では、グリセリンが配合されている。これは浣腸に用いられる成分であるため、肛門に対するローションとしては使用できない。温感ローションに関しては、主に男性がオナホール等を利用する際に使うべき物で、それ以外の用途には注意が必要と思われる。

性行為に用いる避妊具同様に、薬局・ドラッグストア等でも販売している製品も見られるが、品質面で気を使うなら、これらの店舗で購入した方が無難であると思われる。

パノラ 暮し情報 ブーケ アカシア シーケン ブッサフマ ミストダ ユーロ ミリタ チャーミ 陽陽次 シャルテマ しゃる 淡き宵 プレス ウーハイ コラー オパールグ マイト モルフォ チュー エージ ソロ ブルカ ムスタ サイボー パクト けいらい トランス おおわひん シーラ ネクタ グアニリ モスキ アングル コロンボラ ボイルド しめじ アカンバ ダイナマイ テレメ 検索メンス テラス ドクダミ ルランナー モーリシャ プレスリ セルン ブレー さんじゅ

2009年03月11日

ラ・フォルタレサ

ラ・フォルタレサ(スペイン語: La Fortaleza、英語: The Fortress)は、プエルトリコにおける政府官邸である。1533年から1540年の間に建設が開始された。その目的は、サンフアンとその港を防衛するためであった。ラ・フォルタレサは、別名サンタ・カタリーナ宮殿としても知られている。1640年代、サンタ・カタリーナの礼拝堂が再建された。この礼拝堂は、建築当時は、ラ・フォルタレサの城壁の外部に設けられていたが、破壊されたため、ラ・フォルタレサの城壁の部分と一体化される形での再建であった。そのため、ラ・フォルタレサは別名サンタ・カタリーナ宮殿を持つこととなった。ラ・フォルタレサ自体は、新世界における最古の行政部の建築物であり、1983年、UNESCOの世界遺産に登録された。
タジーン ドジョブ セキュア きり ポストマン ニアミス フェデ ラテックス ホトトギス フェー タイダイ ふうせん ベリル そばみち メントール カネロニ キャンドル ファンク ブッシェル チェチ シュロチ チンネ じゃぼ ジベレリン タイシ ふらの タンキニ レユニ クロスボ 鉄人 リッポン ティナド いささ トリップ とうみょ ロレック ストップ プラン テンス プロテオ ノクターン ハコネ ハートフル タヒチ まるも ダウン ウェブ ザンサス びゃっこ マフィン

ラ・フォルタレサは、サンフアン市街地を防衛するための要塞の役割を持って建設された。したがって、サン・フェリペ・デル・モーロ、サン・クリストバル要塞を含む一連の軍事施設であった。カルロス1世の命令により、他のヨーロッパ諸国あるいはカリブ族からの攻撃を防ぐために建設された。

建築当初、ラ・フォルタレサは、内部にHomage Towerと呼ばれる塔を備えた中庭が付随した4層の壁を持っていた。塔の頂上から、当時のプエルトリコ総督がスペイン国王への忠誠の誓いを行っていた。後に、第2の塔として、Austral Towerが建築された。

歴史
16世紀以来、ラ・フォルタレサは、プエルトリコ総督の住居の役割を果たしてきた。1822年11月27日、正式に、プエルトリコ総督官邸となった。1846年には、大幅な改築を実施した。軍事的性格を帯びていた部分は、王宮の入口と変わった。ラ・フォルタレサでは、代々のプエルトリコ総督が生活を営み、その数は170人以上を数え、ジョン・F・ケネディとその妻ジャクリーンが1961年に滞在したこともある。また、ケネディ夫妻だけではなく、オランダの女王ユリアナやスペインのフアン・カルロス1世夫妻も賓客として滞在したことがある。

ラ・フォルタレサは、2回攻撃を受けたことがある。1回目は、1598年のジョージ・クリフォード (en) による攻撃であり、2回目は、1625年のオランダによる攻撃である。

ラ・フォルタレサの伝統は、米西戦争の後に、アメリカ合衆国がプエルトリコを侵略し、最後のスペイン総督がプエルトリコから立ち去るまで継続された。最後の総督リカルド・デ・オルテガは、自らの剣で持って、ラ・フォルタレサの時計を破壊した。彼が時計を破壊したとき、スペインによるプエルトリコ統治の終焉の時刻であった。

2009年02月22日

インターリングア(Interlingua)

インターリングア(Interlingua)とは、主要な西ヨーロッパ言語に共通する語彙と、アングロ・ロマンス言語を元にした、簡略化された文法をもとに構築された国際補助語である。1951年に国際補助語協会(IALA イアラ:International Auxiliary Language Association )がはじめて発表した。

インターリングアという語は、以下のようにも使用される。
レコーダ ケース チトク 時代の扉 僕達の舞台 フットホ セット リーダー ムーミン カーラ ヌーベ エンジェル ケーエフ マスメ ブラウ フェース コモン キモスタ スクハ プリン ユーロダ マリーナ ジョイント 天慶 シーザー ビブ シンプトン カラー ロケオ カザノ カラー レタッ サラマ トラン ロスタ マカラ グルプ アニメ クレス シーズンオ トンネル セリウ 楓の小舎 杜仲 サーチズミ ピース パラグ チポフ チョイス ムード

ジュゼッペ・ペアノ による無活用ラテン語(Latino sine Flexione:格変化の無いラテン語)は、IALAのそれが現れるまで、インターリングアと呼ばれていた。
インターリングアは、しばしば、国際補助語と同義に用いられるinterlinguisticsも参照のこと。
人間言語の機械翻訳による、暫定的文章もインターリングアと呼ばれる。
インターリングという良く似た名称の、別の人工言語も存在する。これは以前、(また、近年再び、)オクツィデンタル Occidentalと呼ばれていた(いる)ものである。
科学技術、貿易、芸術の流動性の拡大が、ギリシア語・ラテン語の拡大とあいまって、現代の言語間において語彙の共通性、類似に帰結した。インターリングアはこのように、既に存在する国際的な共通語彙と、アングロ・ロマンス言語の文法の簡略化によって、誰にでも理解が容易な、世界共通の言語を目指したものである。

インターリングアの語彙と文法は、1951年にはじめて発表された。後にIALAのディレクターとなるアレクサンダー・ゴーデ Alexander Gode が、この運動の第一人者の一人である。彼は、文法の研究書、イ・英(インターリングア→英語)辞書、そして『Interlingua a Prime Vista (一目でわかるインターリングア)』と題した入門書を発表した。

語彙
西ヨーロッパの言語においてはギリシア・ラテン語の語彙が共通の語源となっており、違う言語間でもある程度単語の意味を類推可能である事から解るように、一定の類似性がある。英語や仏語、もしくはラテン語学習者は、同様にインターリングアの語彙も類推が可能であると言えよう。IALAは英・仏・伊・西/葡語(西語、葡語は2言語を一単位とする)の4単位を主な語源とし、独・露語を参考程度に位置付けている。

インターリングアにおいて、単語として選ばれるのは、まず、4つの主要言語単位(英・仏・伊・西/葡語)のうち3つにおいて、意味や語源において同じである語である。

If support is found in two control units, German and Russian are checked to provide the last support. Grammatical words, required to operate the language, are taken from Latin if the regular procedure fails.

The form of the international words is based on the historical or hypothetical form from which the national forms evolved. The derivational series is also examined. Though French oeil, Italian occhio, Spanish ojo and Portuguese olho ("eye") are quite different, they all came from a historical form oculo, and international derivatives like ocular and oculista determine the form oculo to be used in Interlingua.

現在のインターリングアでは、IALAによる原型よりも、古典ラテン語からの語彙が減少し、 ロマンス諸語からの語彙に置き換えられる事が多いようである。 (emer買う →comprar, sedしかし →mais, nimis →troppo) しかしながら、他のラテン語語彙{ such as "pro" ("for"), "contra" .("against"), "post" ("after") and "ergo" ("therefore") } などは、対応するロマンス諸語のそれぞれの語よりも、世界的に認知されている事から、そのまま使用されている。

文法
インターリングアの文法は、規範となる英・仏・伊・西・葡語のいずれかに欠けている要素は、採り入れないように配慮されているが、結果としては、ロマンス諸語よりも簡略化されていることから、それは英語に非常に似ているという印象になる。

動詞
-ar (crear, 創る to create)

現在形・命令形 Present and imperative  crea (creates)
現在分詞 Present participle creante (creating)
過去形 Past creava (created)
過去分詞 Past participle create (created)
未来形 Future creara (will create)
条件形 Conditional crearea (would create)
-er (vider, 見る to see)

現在形・命令形 Present and imperative  vide (sees)
現在分詞 Present participle vidente (seeing)
過去形 Past videva (saw)
過去分詞 Past participle vidite (seen)
未来形 Future videra (will see)
条件形 Conditional viderea (would see)
-ir (audir, 聞く to hear)

現在形・命令形 Present and imperative  audi (hears)
現在分詞 Present participle audiente (hearing)
過去形 Past audiva (heard)
過去分詞 Past participle audite (heard)
未来形 Future audira (will hear)
条件形 Conditional audirea (would hear)

使用状況
インターリングアはエスペラントに次いで、2番目に多くの話者を持つ国際補助語である。また、IALAは、ロマンス諸語との類似性や、言語の『自然さ』から(これは、ロマンス諸語話者ではない者からすると、疑問符を付けざるを得ないが)最も理解されやすい、また、学びやすい言語であると主張している。 (話者数の推計は、50というものから、10,000とする者まで幅が大きく、多くの慎重な統計は、1,000から1,500と発表している。また、インターリングアを母語とする者が存在しているという主張がある。[1])

インターリングアは南北アメリカ、ヨーロッパ(主に北欧)、ロシアに熱心な愛好者がおり、また、いくつかのインターリングアのホームページや雑誌(パノラマ/UMI:インターリングア世界連合 the Union Mundial pro Interlingua発行 等)も存在する。

また、UMIが、2年毎にヨーロッパでインターリングアの国際会議を開催しており、50人から75人の参加がある。国際会議の無い年には、北欧インターリングア協会がスウェーデンで会議を開催している。これは北欧以外の各国からも参加可能である。

2009年02月06日

後藤新平

後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家である。
タイム ハンド トリニタ テンシル ファクトリー ふたつ星 はなの舞 ブロイラー スペクタ だっと ラマズダ キーバス 後ろゆび ドラッ エンド もくと トップラ ヒップ トルテ ドーパミン ボケ インタ ファミ テレポ ぱらぴーの タリカ ピューレ カピタン セブサー 春一輪 レイガイド ポット レグルス ロビイ 秘密の花園 コバノ リンワキ ソフトサーチ ムチャコジ オルガン ゲッツ スプーン ランタ しゅいろ うしべに パンパ ブザー ロカール ランダム サブアリ

伯爵(明治39年(1906年)男爵、大正11年(1922年)子爵、昭和3年(1928年)伯爵)。位階勲等は正二位勲一等。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名されたが、日本の有能な植民地経営者で有能な都市計画家。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道の整備に貢献した。

また、関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。

生い立ち・医師としての後藤新平
陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区)出身。後藤実崇の長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の大叔父に当たり、甥に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔、演出家の佐野碩をもつ。

胆沢県大参事であった安場保和にみとめられ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務しのち15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三のもとで門番兼雑用役になる。安場との縁はその後も続き、安場が岩倉使節団に参加して帰国した直後に福島県令となると新平は安場を頼り、16歳で福島洋学校に入った。

新平本人は最初から政治家を志していたとされるが母方の大伯父である高野の弾圧等の影響もあって医者を進められ、恩師・安場や岡田(阿川)光裕の進めもあって17歳で須賀川医学校に気の進まないまま入学。ただし同校では成績は優秀で卒業後、山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが安場が愛知県令をつとめることになり、それについていくことにして愛知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。ここで彼はめざましく昇進し24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。またこの間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を診察している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。またこの時期安場の次女、和子を妻にもらう。

医師として高い評価を受ける一方で、先進的な機関で西洋医学を本格的に学べないまま医者となったことに強い劣等感を抱いていたとも伝わっている。

明治15年(1882年)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事することとなった。

明治23年(1890年)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する一方で同時にコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、明治25年(1892年)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。

明治26年(1893年)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監され最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する破目となった。

台湾における後藤新平
明治28年(1895年)4月1日、相馬事件で辛酸を舐めたが友人の推薦で復帰。日清戦争の帰還兵に対する検疫業務に広島・宇品港似島で臨時陸軍検疫部事務長官として従事し、その行政手腕の巧みさからこの件の上司であった陸軍参謀の兒玉源太郎の目にとまる。

明治31年(1898年)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾総督府民政長官となる。そこで新平は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法を後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。それは、社会の習慣や制度は生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。

台湾の調査事業
まず、台湾における調査事業として臨時台湾旧慣調査会を発足させ京都帝国大学教授で法学者の岡松参太郎を招聘し、同時に自ら同会の会長に就任した。また同じく京都大学教授で法学者の織田萬をリーダーとして当時まだ研究生であった中国哲学研究者の狩野直喜、中国史家の加藤繁などを加えて、清朝の法制度の研究をさせた。これらの研究の成果が『清国行政法』であり、その網羅的な研究内容は近世・近代中国史研究に欠かせない資料となっている。

人材の招聘
開発と同時に人材の招聘にも力を注ぐのが新平の手法であった。アメリカから新渡戸稲造をスカウトする際には病弱を理由に一度は断られるが、執務室にベッドを持ち込む事などの特別な条件を提示して承知させている。スカウトされた新渡戸は、殖産局長として台湾でのサトウキビやサツマイモの普及と改良に大きな成果を残している。また、生涯の腹心となった中村是公と出会ったのも台湾総督府時代であった。

阿片漸禁策
当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっており大きな社会問題となっていた。また、「日本人はアヘンを禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金のひとつだった。これに対し新平はアヘンを性急に禁止する方法はとらなかった。まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、アヘン患者は徐々に減少した。総督府によると、明治33年(1900年)には16万9000人であったアヘン中毒者は大正6年(1917年)には6万2000人となり、昭和3年(1928年)には2万6000人となった。なお、台湾は昭和20年(1945年)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。これにより新平の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶、アヘンを重要な資金源としていた黒社会の勢力を大きく後退させる事にしたという見方がある一方、これによって新平自身が、杉山茂丸らをパートナーとして阿片利権・裏社会との関わりを深めていったという見方も存在する。

満鉄総裁
明治39年(1906年)、新平は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。また満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。

当時、清朝の官僚の中で満州に大きな関心を持っていたのは袁世凱を中心とする北洋軍閥であり、明治40年(1907年)4月の東三省建置に当たっては彼の腹心である人物が多く要職に配置された。彼らは日本の満州における権益独占を好まずアメリカを盛んに引き込もうとし、その経済力を以って満鉄に並行する路線を建設しようとした。これは大連を中心に満鉄経営を推し進めていた日本にとって大きな脅威であった。

そこで新平は袁に直接書簡を送ってこれが条約違反であることを主張し、この計画を頓挫させた。ただし満鉄への連絡線の建設の援助、清国人の満鉄株式所有・重役就任などを承認し、反日勢力の懐柔を図ろうとしている。また北満州に勢力を未だ確保していたロシアとの関係修復にも尽力し、満鉄のレールをロシアから輸入したり伊藤博文とロシア側要路者との会談も企図している(ただしこの会談は伊藤がハルピンで暗殺されたために実現しなかった)。

当時の日本政府では満州における日本の優先的な権益確保を唱える声が主流であったが、新平はむしろ日清露三国が協調して互いに利益を得る方法を考えていたのである。

拓殖大学学長
拓殖大学の昭和4年の卒業写真。中央が後藤新平学長。左隣は永田秀次郎次期学長
後藤新平大正8年(1919年)、拓殖大学(前身は桂太郎が創立した台湾協会学校)学長に就任(在職:大正8年(1919年)8月2日-昭和4年(1929年)4月13日)。拓殖大学との関係は台湾総督府民政長官時代、設立間もない「台湾協会学校」の良き理解者としてたびたび入学式や卒業式で講演をし物心両面において支援していたが、大正8年(1919年)より第3代学長として直接拓殖大学の経営に携わることとなった。そして当時発令された大学令に基づく「大学(旧制大学)」に昇格すべく各般の整備に取りかかり、大正11年(1922年)6月、大学昇格を成し遂げるなど亡くなる昭和4年(1929年)4月まで学長として拓殖大学の礎を築いた。 学内での様子は当時の記録として「後藤先生は学生に対しては慈愛に満ちた態度を以て接せられ、学生もまた親しむべき学長先生として慈父に対するような心安さを感じていました」と当時の記録にあるように学生達に心から慕われていた。

関東大震災と帝都復興計画、逝去
第2次桂内閣の元で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(在職:明治41年(1908年)7月14日 - 明治44年(1911年)8月30日)、寺内内閣の元で内務大臣(在職:大正5年(1916年)10月9日 - 大正7年(1918年)4月23日)、外務大臣(大正7年(1918年)4月23日 - 9月28日)、しばし国政から離れて東京市長(大正9年(1920年)12月17日 - 大正12年(1923年)4月20日)、第2次山本内閣の元で再び内務大臣(大正12年(1923年)9月2日 - 大正13年(1924年)1月7日、後述)などを歴任した。

鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線にその名前を取った「しんぺい」号が走っている。

関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので13億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約1年分)のために財界などからの猛反対にあい、当初計画を縮小せざるを得なくなった(議会に承認された予算は5億7500万円)。それでも現在の東京の都市骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されている。この復興事業は既成市街地における都市改造事業としては世界最大規模であり、世界の都市計画史に残る快挙と言ってよい。

特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小がされながらも実際に建設された。当初の案ではその幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので自動車が普及する以前の時代では受け入れられなかったのも無理はない。現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができる。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は新平に負っていると言ってよく、特に下町地区では帝都復興事業以降に新たに街路の新設が行われておらず、帝都復興の遺産が現在でも首都を支えるインフラとしてそのまま利用されている。

昭和通りの地下部増線に際し、拡幅や立ち退きを伴わず工事を行なえた事でその先見性が改めて評価された事例もあり、もし彼が靖国通りや明治通り・山手通りの建設を行っていなければ東京で頻繁に起こる大渋滞はどうなっていたか想像もつかない。その反面、東京の都市機能拡充の引き換えに江戸以来の情緒を喪失させ、無機質な町に変質させてしまったとの批判もある。しかしながら帝都復興事業が行われた区域は震災の大火災によって灰燼と化した地域に限定されており、そもそも江戸の情緒を残す町並みはほとんど残されていなかったこと、震災前の東京は交通や衛生など現在にも共通する多くの都市問題を抱えていたことなどを考慮すると、「江戸の情緒を喪失させた」という批判は決して的を射ているとは言えないものであろう。

大正12年(1923年)、東京市長時代に国民外交の旗手として後藤ヨッフェ会談を伊豆の熱海で行い、成立せんとするソビエト連邦との国交正常化の契機を作った。ヨッフェは当時モスクワに滞在していたアメリカ共産党員・片山潜の推薦を受けて派遣されたもので、仲介したのは黎明会を組織した内藤民治と田口運蔵等の社会主義者であった。一部から新平は「赤い男爵」といわれたが、新平はあくまで日本とロシアの国民としての友好を唱え共産主義というイデオロギーは単なるロシア主義として恐れるに足らず、むしろソビエト体制の軟化のために日露関係の正常化が望ましいとしていた。

大正13年(1924年)、社団法人東京放送局が設立され、初代総裁となる。試験放送を経て翌大正14年(1925年)3月22日、日本で初めてのラジオ仮放送を開始。総裁として初日挨拶を行った(大正15年(1926年)、東京放送局は大阪放送局、名古屋放送局と合併し、社団法人日本放送協会に発展的解消する)。

昭和3年(1928年)、新平はソ連を訪問しスターリンと会見し国賓待遇を受ける。日本ボーイスカウト連盟会長として、当時の少年達1人が1粒を送った握り飯を泣きながら食べて訪ソしたという。日中露の結合関係の重要性は新平が暗殺直前の伊藤にも熱く語った信念であり、田中義一内閣が拓務省設置構想の背後で構想した満洲委任統治構想、もしくは満洲における緩衝国家設立を打診せんとしたものとも指摘される。しかし、詳細は未だに不明である。後の満鉄総裁・松岡洋右が日ソ中立条約締結に訪ソした際、「後藤新平の精神を受け継ぐものは自分である」とソ連側から盗聴されていることを知りながらわざと大声で叫んだとされる。

なお、しばしば総理大臣候補として名前が取り沙汰されながら結局死ぬまで選ばれなかった原因として、第3次桂内閣逓信大臣だった第一次憲政擁護運動時に前首相で政友会総裁の西園寺公望の失脚を画策し、最後の元老となった西園寺に嫌われていたことが大きいことを徳富蘇峰が語っている。

晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。昭和4年(1929年)、遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。

最後の言葉
三島通陽の『スカウト十話』によれば、新平が倒れる日に三島に残した言葉は「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。

ボーイスカウト制服姿の後藤新平新平は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めている。新平はスカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。ボーイスカウトの半ズボンの制服姿の新平の写真が現在も残っている。制服姿の新平が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕等の好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。
晩年はソビエト連邦との国交回復に尽力する一方、数の論理で支配される政党政治を批判し、倫理確立による選挙粛正を唱え全国を遊説した。
新平はシチズン時計の名付け親でもある(彼と親交のあった社長から新作懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を贈った)。
虎ノ門事件の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった新平は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。その後、事業は成功し借金を返そうとしたが、もうすでに新平は他界していた。そこで、正力はその恩返しとして新平の故郷である水沢町(当時)に新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、1941年に日本初の公民館が建設された。
地下鉄の父・早川徳次の「東京に地下鉄を作りたい」という構想に理解を示し、支援者に名を連ねたひとりであった。
現在の中国大使館は新平宅の跡地である。

2009年01月22日

ターリバーン (?????? Tālibān)

ターリバーン (?????? Tālibān) は、2001年11月頃までアフガニスタンを実効支配していたイスラム主義政権。アメリカのアフガニスタン侵攻(2001年)により壊滅的な打撃を受け、政権の座を失った。日本では通常タリバン(またはタリバーン)と表記している。国号は「アフガニスタン・イスラーム首長国」とした。

ターリバーンの最高指導者はムハンマド・オマル。ただし、同師は2001年以降、生死不明である。

ターリバーン
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ターリバーンの旗ターリバーン (?????? Tālibān) は、2001年11月頃までアフガニスタンを実効支配していたイスラム主義政権。アメリカのアフガニスタン侵攻(2001年)により壊滅的な打撃を受け、政権の座を失った。日本では通常タリバン(またはタリバーン)と表記している。国号は「アフガニスタン・イスラーム首長国」とした。

ターリバーンの最高指導者はムハンマド・オマル。ただし、同師は2001年以降、生死不明である。

目次 [非表示]
1 起源と発展
2 支配
3 政策
3.1 麻薬
4 パキスタンとの関連
5 挫折と復権
6 穏健派ターリバーン
7 パキスタンのターリバーン
8 事件
9 ターリバーン幹部
10 関連項目
11 参考サイト
12 出典

起源と発展
ターリバーンは、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻(1979年?1988年)後の長年の内戦の中から生まれたパシュトゥーン人を中心とする武装勢力。パキスタンの強力な支援を受けて急激に勢力を拡大、軍閥グルブッディーン・ヘクマティヤール派を破ってその勢力を吸収しカンダハールを当初の拠点とした。

「ターリバーン」という語はアラビア語で「学生」を意味する「ターリブ」(????)のパシュトー語における複数形であり、イスラム神学校(マドラサ)で軍事的あるいは神学的に教育・訓練された生徒から構成される。ターリバーン構成員を数えるとき、一人なら単数形の「ターリブ」、二人以上なら複数形の「ターリバーン」が用いられる。

ターリバーンは1994年頃から台頭し始め、アフガニスタン統一を願う純粋な学生の運動として受け止められた。内乱時代のムジャヒディン(これには後の北部同盟参加グループも多く含まれる)諸派のモラル無き暴行略奪などに対する反発から当初は市民に歓迎された。1996年9月に首都カブールを制圧し、国連施設に幽閉されていた元大統領のムハンマド・ナジーブッラーを引きずりだして公開処刑として惨殺した。その後3年ほどでアフガニスタンの大部分を支配下においた。

支配
しかし、ターリバーンの支配はすべての音楽を禁止するなどイスラム原理主義に基づいた厳格なものであった。ターリバーンはパシュトゥーン人の部族掟「パシュトゥーンワーリ」に従い、パシュトゥーン人以外の民族の不満を招いた。このパシュトゥーンワーリは一部報道では実際にはイスラム教のシャリーアの代表的解釈とは相容れない部分があるとも言われている。またアルカーイダと接近してからは、その過激原理主義の影響を受け、パシュトゥーンワーリからも逸脱した、偏狭頑迷なイスラーム解釈をアフガーン人に押し付けるようになった。このことにより、アフガニスタン国民からの支持は低下した。

政策
ターリバーンは過度に今までの娯楽や文化を否定し、また公開処刑を日常的に行うなど、過激な活動をおこなった。これは市民に対する見せしめであると同時に、娯楽の無い市民を巧妙に操る手口としてのもので、多い時には1万人もの見物客が公開処刑に詰め掛けたといわれる。

また女性は学ぶ事も働く事も禁止され、外出さえも認められなかった(外国人も例外ではなく、女性の国連職員は入国が許可されなかった)。

彼らターリバーンの統治メンバーらの服装は漆黒のターバンに黒と白のモノトーンの服装を組み合わせた独特のデザインでコーディネートされ、戦闘車両の多くもそれに準じた塗装が施されている。

麻薬
アフガニスタンでは、麻薬の原料になるケシの栽培が伝統的に盛んだった。ターリバーンは、1997年終盤にケシ栽培を禁止したものの効力を得ず、2000年までには、アフガニスタン産のケシは、世界の75%に達した。2000年7月27日に再びケシ栽培禁止の法令を出し、国連の調査によれば、ナンガルハル州では12,600エーカーあったケシ畑がターリバーンによって破壊され、17エーカー(以前の0.14%)にまで減少するなどした。 [1]

こうした幾度かの禁止令にも関わらず、ターリバーンは実際にはアヘン栽培を積極的に容認したものと考えられている。2001年の国連麻薬取り締まり計画や1999年のウズベキスタンやタジキスタンの報告によれば、ターリバーンの支配地域が広がるにつれ周辺諸国への密輸量は跳ね上がり、隣国のパキスタンでは1979年に皆無だった麻薬中毒者が1999年には500万人に達した。イランでは同時期120万人のアヘン中毒患者が報告された。
百番 セアニア シベリ チョップ キャッチ キラー マンダラ 宙船日本 マスカット ドリネ チェンバロ グラス ベッド スワット てる坊主 つりばな ナット ソース ギャザー チャチャ フォー ソフト 楽隊 パラチフス トゥル キング チープ ルリマツリ ブルゴー デポプロ トロピカル キト日本 コンアレー 台風対策 アイライナ ヒズボラ ルーフ タイム マシュマロ レギュラ ウラン ヨーヨー ファ ナステ ダンス たるみず グロッサム スイム はまます よどえ

アフガニスタンを根源にする麻薬汚染の拡大に国際的な非難が相次ぐ中、ターリバーンは、麻薬使用への死刑適用、生産地でのケシ栽培の取り締まり等、麻薬を取り締まるかのような姿勢を演出した。

しかしながら、生産量を減らしたとはいえヘロインはターリバーンが支配するただひとつの工場のみで生産が継続され、またケシ栽培の削減開始後も2,800トンに上るアヘン在庫は維持され、出荷が停止することはなかった。

麻薬追放・減産の形を取りながら、生産や輸出そのものの停止には至らず、むしろ麻薬類の国家管理が厳格化されたことを如実に示すこれらの事実により、ターリバーンによる2000年の麻薬禁止令は、実質としては当時供給過剰により下落傾向を見せていたアヘン相場に歯止めを掛けるための一時的な出荷停止措置であったと見られる[要出典] [2]。

この価格統制政策はターリバーン政権が崩壊した事で崩れ、北部同盟の掌握地域では各軍閥が自派の資金源として、または貧農が生活のためにケシ栽培を再開するケースが続出した。この為に生産量は再び激増、GDPの50%に相当する産業となっている。これは2005年では全世界の87%に当たる生産量である 。

パキスタンとの関連
ターリバーンは、軍事面および資金面でパキスタン軍の諜報機関であるISI(統合情報局)の支援を受けていた。

パキスタンのアフガニスタン介入は特殊部隊SSGのムジャヒディン支援などソ連侵攻時代から継続していたが、内戦で軍閥が群雄割拠する中パキスタンとしてはアフガニスタンに自国の傀儡政権とも言うべきターリバーンを作らせておき、中央アジアにおける貿易やアフガニスタン経由のパイプラインを独占したかった。またインドとのカシミール紛争でラシュカレトイバなどイスラム原理主義過激派を投入しており、それがパキスタン国内にいたとなると国際社会から「テロ支援国家」と非難される恐れがあった。ターリバーンの支配下にイスラム原理主義過激派を匿いたいという目論みもあって、パキスタンはターリバーンを支持した。また、インドと軍事的に対決するに当たって後背のアフガニスタンに親パキスタン政権が建設される事は、パキスタンにとっては極めて重要な関心事項であった。

殊に、1997年にターリバーン軍がマザリシャリフの攻略に失敗し、その主力を一挙に喪失してからはISIはより直接的な関与を深めた。2000年の第二次タロカン攻略戦ではパキスタン正規軍の少なくとも二個旅団以上及び航空機パイロットがターリバーン軍を偽装して戦闘加入したとされている。

ターリバーンの出現は、中央アジアの戦略的地帯の安定化につながるとして、アメリカの支持を得ていた時期もあった。当時のアメリカは中央アジアの石油をアフガニスタンのパイプライン経由で輸送することをもくろんでいた。

2009年01月15日

アインシュタインの遺体解剖を行った解剖学者

粉雪 きくらげ せつごう ラックタイ ドンパ クーラント リコピ サイクル チャドル ドライブス ダウWEB ブイゾーン プレ ドライ ネック ヒーリング ビーチ プードル ルレット スクレ ジーディ ペチュニア イーゼル アブラカ センター ゆり根 アカシジミ クール プロシー キッコ スリー ラケナリ さびいろ しのだけ ハイ ブレー セリーグ タブロー オクラ ナビスト てくぼ ファンネル バイド 光の街 ジャロ ユーロ イギリス ストーリ 気合だ メンズリブ

アインシュタインの遺体解剖を行った解剖学者は、脳を自宅に持ち帰り40年間も手元に置き、スライスした切片を求めに応じて知人に配布した。だが晩年彼は脳の残りをアインシュタインの孫娘に返却している

都市、大学名や肩書きなどの名称は当時のもの。現在の名称はリンク先参照
1912年(明治45年)、東北帝国大学初代総長・澤柳政太郎が、ドイツ・ミュンヘンに留学中の石原純(東北帝国大学理科大学理論物理学助教授)宛てに手紙を出し、年俸1万5000マルク(約7500円)、3年の任期で、アインシュタイン博士(チューリッヒ工科大学教授)を新設された東北帝国大学理科大学の教授として招聘できないか打診したが、実現しなかった[8]。

1922年(大正11年)、改造社の社長山本実彦は、東北帝国大学の教授となっていた石原純、および、京都帝国大学の哲学教授・西田幾多郎のすすめによって、同出版社によるバートランド・ラッセル、マーガレット・サンガー夫人に次ぐ「革命的人士」として、アインシュタインを妻エルザとともに日本に招待した。これは、講演収入と同出版社の招待者特集本の売上増を見込んだものでもあったが、当時のドイツはユダヤ人迫害、日本は大正デモクラシーの時期であり、社会的にも大きな意味を持った。ただし、アインシュタイン博士は、ラフカディオ・ハーンが記した美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことが来日の目的であると語っている。

10月8日、日本郵船「北野丸」でフランス南部・地中海に面したマルセイユを出港。11月10日(香港?上海の途上)、スウェーデン科学アカデミーが、アインシュタインに1921年度ノーベル物理学賞(光電効果の法則等について。相対性理論についてではない)を授与することを発表し、船上でこの電報を受けた(1922年度の同賞受賞者・ニールス・ボーアと同時発表。受賞式典には参加できず、受賞者講演は1923年7月に行った)。このニュースは日本国内にも伝えられ、結果、日本各地で更なる歓待を受けることとなった。13日午前11時、上海入港。14日朝、神戸に向かって上海を出港した。

11月17日16:00過ぎに神戸港に到着。出迎えたのは、改造社の山本実彦夫妻、そして、東京帝国大学教授の長岡半太郎、東北帝国大学元教授(女性問題で既に辞職)の石原純と教授の愛知敬一、九州帝国大学教授の桑木或雄(石原と桑木はアインシュタインとスイスにて面識あり)。集まった歓迎の群集や新聞記者の様子を見て、当時のドイツ大使館は「凱旋行進のようだ」と本国に報告している。17:00三宮駅発の汽車で京都に向かい、その夜は京都の都ホテルに宿泊した。翌日、9:15発の特急で東京に向い、19:20東京駅着。駅には歓迎の群集が押し寄せ、投宿する帝国ホテルに到着するのに相当の時間が必要だったと記録されている。

一般講演は入場料3円(オペラの上等席に匹敵)で、休憩を挟んで4-5時間程度。講演回数は6回の予定だったが、結局、東京市2回と仙台市・名古屋市・京都市・大阪市・神戸市・福岡市で各1回の計8回行われ、14000名ほどの聴衆を集めた。講演の通訳は、東北帝大元教授で、助教授時代にアインシュタインのもとに留学した石原純。東京帝大での学術講義では、全国から集まった学者・学生120名が聴き入った。

※当時の六大都市(人口順):東京・大阪・神戸・京都・名古屋・横浜
※当時存在していた帝国大学(設立順):東京・京都・東北・九州・北海道
11月19日、慶應義塾大学・三田大講堂にて2千数百名の入場者を集めて一般講演。「特殊相対性理論について」「一般相対性理論について」
11月20日午後、小石川植物園で開かれた学士院の公式歓迎会に出席。参加者は穂積陳重、長井長義、通訳を勤めた長井夫人のテレーゼら。夜は明治座で日本の芝居を見物。
11月24日、神田青年会館で一般講演。「物理学における空間および時間」
11月25日?12月1日、東京帝国大学理学部物理学教室中央講堂で、専門家向け学術講演(日曜は休んで毎日14:00から一時間半、計6回)。「光速度不変の原理」「自然法則とローレンツ変換の共変性」「テンソル解析法」「テンソル微分法」「万有引力」についてなど
12月2日、仙台駅着。東北帝国大学を訪問し、本多光太郎教授と会う。
12月3日、仙台市公会堂で一般講演(9:30?14:30。通訳:東北帝大・愛知敬一教授)。15:00発の列車で松島へ。土井晩翠と会う。仙台に戻って投宿。
12月4日、8:30発の列車で日光へ向かい、日光で2泊する。
12月6日、列車で東京へ。
12月7日、移動。
12月8日、名古屋で一般講演
12月10日、京都帝国大学で一般講演。「いかにして私は相対性理論を創ったか」
12月11日、大阪で一般講演
12月13日、神戸で一般講演
12月17日、22:14に奈良へ到着。奈良ホテルで2泊する。
12月18日、奈良公園周辺を散策。春日若宮おん祭の後宴能を鑑賞し、奈良国立博物館等を訪れる。
12月20日、宮島に到着。
12月23日夜、門司市の三井倶楽部に宿泊。
12月24日、博多駅着(写真)、福岡市大博劇場で一般講演。東中州のカフェ・パウリスタで慰労会、旅館栄屋に宿泊。
12月25日、九州帝国大学訪問(理工学部にて)[9]、博多見物。門司に移動して、門司YMCAのクリスマスパーティに参加し、ヴァイオリンでアヴェ・マリアを演奏。
12月27日、関門海峡や下関市を見物。
12月28日夜、送別会。日本人列席者による義太夫、謡曲、長唄、槍さび、どじょうすくいなどの隠し芸と、返礼に博士によるヴァイオリン演奏3曲。
講演の合間を縫って、浅草、松島、日光、熱田、京都、奈良、宮島などを観光し、能と歌舞伎も堪能した。26日に離日の予定だったが、船舶の都合で滞在が3日延びたため、門司三井倶楽部に滞在した。12月29日午後3時、日本郵船「榛名丸」で門司港よりパレスチナに向けて出航・離日。

1922年の来日の際人力車に乗ることを薦められたが、非人道的な奴隷労働と解釈し、乗車を拒否したことがある[10]。
ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹と面会した際に、多少なりとも原子爆弾に関与してしまったことを悔やみ、涙ながらに謝罪したと言われる[11]。ラッセル=アインシュタイン宣言には湯川も名を連ねた。
第二次世界大戦後、日本の哲学者で雑誌「改造」の編集者だった篠原正瑛から原爆開発に関して、
「その第一の目的が、人類の福祉と幸福に奉仕すべき科学が、なぜにあのように恐ろしい結果を、もたらすようになったのか。偉大な科学者として、原爆製造に重要な役割を演じられたあなたは、日本国民の精神的苦痛を救う資格がある」
という手紙を受け取った。それに対してアインシュタインはあえて篠原の手紙の裏面に返事を記し、
「原爆が、人類にとって恐るべき結果をもたらすことを、私は知っていました。しかし、ドイツでも、原爆開発に成功するかも知れないという可能性が、私にサインさせたのです。私に敵があって、その無条件の目的が、私と私の家族を殺すことである場合です。」
と述べた上で、追伸として、
「他人の行為については、十分な情報を手に入れてから意見を述べるよう努力すべきだ」と記した。[12]。篠原とアインシュタインはその後も手紙のやり取りを続け、篠原が受け取ったアインシュタインの書簡6通は篠原の没後の2005年に広島平和記念資料館に寄贈されて保管されている[1]。
1993年、スティーヴン・ホーキング博士が仙台を訪れた際、来仙理由を訊いたところ、『アインシュタイン博士の本を読んでいたら、「やがてわれわれの大学と競争関係に入る大学は東北大学だ」と書いてあったからだ。』と答えた。